吉野
生年月日とご出身地を教えてください。

石塚氏
生年月日は昭和34年4月18日。
出身は東京都立川市です。

吉野
小学校の頃に好きな学校の教科とかありましたか?

石塚氏
勉強嫌いだったんで、体育ですよねやっぱり。
他には工作が非常に好きだったですね。
中学校になってから、「家庭科」です。縫い物が結構上手かったですよ。

自分で縫ってきた雑巾を、買って持ってきたんだろうと疑われたほどです。
それから野球ですね、これは熱中したというよりも人生を変えました。

吉野
人生を変えたというと?

石塚氏
小学校の頃に「リトルリーグ」で日本一になった事があるんですよ。中学校でも野球部に入部してました。
小学校、中学校一緒で尊敬していた先輩が國學院久我山って高校に行きましてね、その先輩から誘われて國學院久我山に入ったんです。
野球部員は結構いましたから1年の夏はユニフォーム着れなかったですけど、1年の秋からちょっと重めな背番号背負ってベンチに入れるようになったんです。

僕らの時は1年の夏は決勝で負けまして、甲子園行けなかったですけど、秋は準決勝、2年になって準決勝だったんですが負けしまったんです。3年の時は優勝候補だったんですがチーム事情が良くなくて、3回戦か4回戦でやられちゃったんです。
でも、どちらかと言うと幸せな野球生活だったかなと思っています。
もうひとつ勝っていれば、5期連続で甲子園出れるみたいなそういう時期だったですね。
その後、後輩たちが甲子園に2、3回行きましたね。

吉野
その頃、お菓子屋になろうと思ったきっかけはまったくないですね?

石塚氏
ええ、野球人生を歩きたかったんですが、僕が、高校2年から3年に上がる春に両親が離婚しまして。
母親には弟がついて行き、僕は、父と一緒に暮らしました。
野球しかなかったんで、大学に行って野球やろうと思っていたんです。

中央大学に行きたくて、そこから引っ張られてましたし、自分としては小学校、中学校、高校、大学があって、社会人じゃないかなって思っていたんですよ。
プロは、社会人の後だろうと自分の青写真にはあったんで、その頃プロについては考えられませんでした。

吉野
社会人というと企業の社会人野球ですね。

石塚氏
そうです。
父としては、本当は僕の夢をかなえてやりたかったんだと思うんですが、経済的な理由から大学進学は難しいと思っていました。
ただ、父としては男として、息子の夢をつぶしたくないと思ったようですが、男としてのプライドがあるから素直にそれを言えないんですよ。

ちょうど、その頃、僕の近視が進んでいて視力が落ちていたんで、父が「目の悪いやつは大学でやってもダメだからやめろ」という言い方をしてきたんですよ。
「だったらもう俺は野球はやめる。俺はもう働くから」と言いはって父とほとんど口も利きませんでした。
皮肉なもので、その時期に社会人野球の数社から声がかかったんです。

吉野
へえ、野球やめようと宣言してからですか?

石塚氏
そうなんですよ。そしたらね、父が、手の平返したように「野球やれ」って言い出したんですよ。
そしたら俺が「目の悪いやつはやってもダメだ言ったやつ誰だ」って言ったんです。そしたら父が、「金がかからないからやれ」って言うんですよ。僕はもう父とケンカして「絶対やらない!絶対俺はもう野球はやらない!」って言ってしまったんです。

吉野
野球から離れたんですね?

石塚氏
そうです。野球しかなかったんですが、男が一度口に出した以上は筋が通 りませんからね。
父からも「お前働いて1人で住め」って言われて、住まいも捜さないといけなかったんで基本給の高い所探さないとダメだなという事しか考えつかなかったんです。

吉野
どこに就職されたんですか?

石塚氏
学校のリクルートブックで調べてたら、「亀屋万年堂」というお菓子屋さんが基本給高かったんです。
プロ野球の選手にもなりたかったですけど、手先が器用だったんで大工かコックになりたいなって夢もあったんで、お菓子作りもいいかな・・・なんて単純に思いましてね。

吉野
流れが結局はそこに行き着いたということですね。

石塚氏
そういう事ですが、やる気はまったくなかったんですよ。先輩たちにすごく怒られましたね。
言う事は聞かないは、態度はデカイは、仕事はしないは、その代わりにメシは人の3倍食うって、会社の粗大ゴミ状態だったですね。

吉野
やる気のない状態からどういうきっかけで菓子職人に目覚めたんですか?

石塚氏
まったくやる気なかったですけど、このままじゃいけないなって考えていた頃に同期の奴と些細なことでつかみ合いの喧嘩になったんです。
その時に、上司である岩本さんから僕だけいきなり殴られたんです。

もちろん相手も殴られたんですが、なでられるような感じで、それがすっごい頭に来て、何だこの差別はと思って。
でも当時の僕は、不良社員のレッテルを貼られてたでしょう?その事を父に話をしたんです。

父も昔のバンカラ風でしたから、この話をしたら父も「何でそんな奴殴り返さない」って言うなと思ってたんですけど、その時だけは本当に良い事言いましてね。
「う〜ん、そうか」って聞いているだけで、話し終わって父が一言「そうか、でもな伸吾な、男だったら仕事で負けたらダメだ」って言ったんです。
が〜んと脳天にきたんですよ、その言葉が。
その一言だけで、自分が負けるどころじゃなくて会社からはまったく相手になっていないと、すごく感じましてね。

吉野
そこからお菓子作りにのめり込んでいくんですね?

石塚氏
ええ、このままじゃいけないと思って、仕事をすごく上手くなるためにどうしたら良いかと思ったら、仕事が一番上手な人に教えてもらえば一番だろうと単純に思ったんです。
当時の亀屋さんの中では、その岩本さんが一番熱心で一番仕事ができたんです。

その人に聞くしかないんですよ。
「いやだな〜」と思いつつ、昼休みに食事が終わって、岩本さんの所に行ったんです。
その時に岩本さんは「ガトー」っていう業界誌を読んでたんです。

そこで「すみませんが分からない事があるんで教えてもらえませんか?」って言ったんですが、岩本さんは、そのまんま雑誌を読んでるんです。
僕はずーっと立ちっぱなしです。
だけどお願いで行った以上は引き下がれないから、ずーっと立っていたんです。
で、また次の日も行って、次の日も声をかけても「ガトー」から目を離さないで無視するんですよ。

吉野
いやあ、どっちも根性ですね。

石塚氏
こっちも必死ですから、頭下げた以上は何か言うまで毎日行ってやろうと思いましたからね。
じゃないと僕の負けですからね。
1週間くらいたって「何だ?」って言うから、「いやこれがわからないので」って「じゃあ次やる時に呼べ」って言われたんですね。
その時にね、その人が「親方」だと「師匠」だと自分で決めたんです。

それからずーっとマンツーマンですよ。
1年半くらい休みの日もずーっと色んな事を教えていただきました。その間は、その岩本さんの前を歩いた事ないです。
10代の時の基礎は岩本さんに教えて頂いて身に付いたんです。

吉野
亀屋さんにはどれくらいいらっしゃったんですか?

石塚氏
2年くらいですかね。
実は岩本さんが亀屋をやめられて、それから半年して辞めました。
何か目標を見出せなくなって・・・・。
亀屋さんは、和菓子と洋菓子をされていたので、洋菓子職人として腕を磨くんだったら、洋菓子屋に行く方が良いのでは、という思いがあったんです。

吉野
パティシエと言うか洋菓子職人に目覚めたって事ですか?

石塚氏
そうだと思います。それから何店舗か街場の洋菓子屋に行きました。
それから「東京プリンス」に行き、フランス料理の「ペリニィヨン」に入ったりして分野の違うお菓子をやってきました。

吉野
じゃあ色々ご経験されたんですね。

石塚氏
はい、今度は、意図して望んでそういう所に入って行きました。
その当時はホテルのデザートが一番良いみたいな言い方で言われていましたから、ホテルに入ってデザートをやろうと思ったんで、「東京プリンス」に運良く入れました。
その後は「ペリニィヨン」のレストランです、フランス料理のレストランでデザートをやる機会があったんです。

吉野
色んなタイプのお菓子を学ばれたんですね。

石塚氏
そうですね。ただね「美味い物」っていうものに遭遇したのはレストラン入ってからですね。
食に対する感覚、味に対する考え方が、全然違ってました。

吉野
食事を終わられるタイミングを見計らって、準備してお出しするって感じですよね。

石塚氏
最初は、苦しんだんです。基本的に流れが違うんですよレストランって。
準備を85%くらいで終わっていなきゃいけない訳ですよ。オーダーが入ってから初めて作り出す訳ですから、85にあと15を瞬間的に出していかないといけないんです。
それがやっぱり慣れるまでにすごく時間がかかったですね。
今はデザート大好きですよ、何もない所から作るの大好きですね。

吉野
自分で店を出そうと思ったのはだいたいいつぐらいですか?

石塚氏
36の時かな。レストランに5年くらい居ると、だんだん菓子屋が恋しくなっちゃうんですよ。
菓子屋に戻ろうと思って、ペリニィヨンを辞めたんです。
その時に色んな所から仕事の声がかかるんです。ニューヨーク行きやフィレンツエに行ってくれって話しもあったんですが、「どうしようかなぁ・・・」と思っている時にペリニィヨンに遊びに行ったんですよ。

そしたら「ペリニィヨンで今度また事業を始めるから戻っておいでよ」という話になったんです。
本当は、何もなかったんですよ。
でも、「何かやる」っていう事だけがあったんです。
そこに偶然、僕が来たもんですから、お菓子屋のシェフになっちゃったんです。

吉野
と言うと?

石塚氏
洋菓子店を始めることになったんです。
店の場所を探していたら、ペリニィヨンの企画担当者が物件が出たというから、そこを見た時に驚きましたねえ。
深川不動さんの参道の中だったんですよ。
煎餅屋や漬物屋がある場所だったんです。
「いやあ、ここはちょっとな」と思ったんですけども、自分で資金を出す訳でもないし、かえってミスマッチで面 白いかもと思ったんです。

でも13坪くらいしかないから、完璧に狭いからダメだなって事になったんですけど、他にもう1ヶ所借りるようにして厨房と小さい売店を備え2店舗になったんです。
バブル時期ですので、結構、お金使わせてくれたなぁと思いました。
それでシェフまでやらさせて頂いて、「ああ幸せだ。俺はここで骨を埋めるぞ」って気持でやりました。

幸いに結構売れました。
製品依頼なんかもすっごく多かったんです。
1ヶ月で11社くらいから製品依頼受けていたんですよ。

吉野
仕事大変でしたでしょうね。

石塚氏
店も忙しかったし、人も少なかったですから結構キツかったですが、売り上げがすごく良くて、会社の上の方々も喜んでくれて。
みなさんレストランやってらっしゃるから、レストランの効率の悪さをご存知なんです。
だから菓子屋の効率の良さがすっごくいいなあと評価されたんですね。
3年目には売り上げが1億2千万超えてましたから。

吉野
ひと月1,000万ですね。

石塚氏
給料はある程度頂いたんですが、お金の問題ではなかったですね。
会社もそれだけ投資していますから、それでこれだけやらせてもらえるのはすごく嬉しかったです。

4年くらい経って取締役専務製菓長になったです。
だから給与がかなり上がりました。

吉野
じゃあそこをお辞めになって、お店を?

石塚氏
ペリニィヨンの会長に、私が「辞めたい」と言うと「独立するなら良いが他の会社に行くのはダメだ」と言っていただいたんです。もっとも他の会社は考えていませんでしたから、独立し37歳の時にオープンしました。
実は、僕は、福岡にあるフランス菓子16区の三嶋オーナーを勝手に「師匠」と思っています。その三嶋オーナーも37歳でオープンしたってのは前から聞いていて、同じ37歳オープンでムッシュに挑戦させて頂こうという気持でした。

吉野
三嶋社長とお知り合いになったのは?

石塚氏
ペリニィヨンでデザート作っていた頃からです。
実は「ペリニィヨン」のお菓子の担当は、僕がやる前に、横浜の「ベルグの四月」の山本オーナーがやられていたんですよ。
僕は山本さんとの入れ替わりなんです。
山本さんは帝国ホテルで三嶋オーナーの後輩にあたる方なんです。

そんな関係で山本さんとも行き来があって、それから三嶋オーナーを紹介していただいたんです。
当時僕が25、6の時ですから、もう24、5年くらい前になりますね。
何よりも菓子職人として、また人間として凄く影響を受けていますし、お話を聞いて勉強させていただいたり、相談にも気軽に乗っていただいてます。

吉野
この場所にお店を決められたきっかけは?

石塚氏
緑の多い空気の綺麗な水の美味しい所がいいなあと思っていたんです。
ここは、緑が多いし、空気が綺麗で環境が良かったんです。
この辺は土地勘がまったくなかったけど、ずっと歩き回っていたら、たまたまここがあったんです。

ここは安かったですね家賃が手頃でしたから。
「ま、いいやここで」みたいな軽いノリで決めました。
僕がここを決めた大きな理由は「緑が多い」のと「空気が綺麗」につきますね。

吉野
お店の名前はどうやって決められたんですか?

石塚氏
僕ワインが好きで「グラン・クリュ」という言葉はそういう関係でずっと前から知っていましてね。
ワインには最高級銘柄ワインがありますがその意味です。
フランスも好きですし、フランス菓子も好きだから、どこかでこの気持ちを表現できないかなと思ったんです。

それからうちの店のロゴの「葉っぱのマーク」は「四葉」じゃなくて、「マロニエの木」の葉っぱをデザインしたんです。
マロニエの木は、パリにも多いしフランス全土に多いんですよ。
そして、たまたま店の前の街路樹が「トチの木」で「マロニエの木」の親戚 筋なもので店のロゴのデザインと店名を決めたんです。

それと、多摩市の環境に敬意を表しているんです。
ワインを作るための上等な葡萄が取れる地域、環境としては多摩の地域は上等でグラン・クリュ地域だろうなって意味で付けたんです。

吉野
オープンは何年前ですか?

石塚氏
13年目に入りました。
3年前に多摩センター駅店をオープンしたんですが、嬉しいことに毎日毎日お菓子が飛ぶように売れいくんですよ。
でも、全スタッフでどんなに頑張っても2店舗分の商品の製造が追いつかなくなってしまったんです。プロだからそれでもやらないといけないと思ったんですが、どんなに注意を払っても限られた人数で毎日自分の所のキャパを超えて生産していくと、あってはならない事ですが、お菓子の質に影響が出てくると思ったんです。
それ以前にお客様の口に入るものですから、いい加減な事はできないと思って青木葉通 り本店は一時販売を休み、お菓子の製造専用の拠点にして、センター駅店だけで販売するという事にしたんです。


吉野
普通なら、人をどんどん入れて大量生産していくんですがね。

石塚氏
お客様には大変に申し訳ないと思っています。でも無理な事を続けることでスタッフにマイナス的な面を与えます。また、そんなに直ぐには人材も育ちません。当時は徹夜続きだったのでスタッフが辞めてしまった経験も持っています。ですから、無理な生産はせずに、僕の目の届く範囲で質を落とさずにやっていくには、これしかなかったんです。いずれ近いうちに青木葉通 り本店も再開する計画です。

※2009年5月に青木葉通り本店は営業を再開致しております。

吉野
オーナーが考える菓子職人として大事な部分っていうのは何ですか?

石塚氏
「諦めない」って事でしょうね。
「諦めない」あとは「続ける」って事でしょうね、僕は多分それが一番大事なんじゃないかと思いますね。

吉野
これから菓子職人になりたいと思っている人にアドバイスかなにかありますか?

石塚氏
技術の前に精神的なものになるので、精神があってから技術的な事がついてくると思います。だから「諦めない」とか「続けなさい」とかそういう事しか言えないですね。続けないと良さなんて分からないですし、結局途中でやめちゃうから嫌な事しか残らないから本人も嫌でしょうしね。

吉野
今日は、長時間にわたり本当にありがとうございました。