吉野
本日は、よろしくお願いいたします。
生年月日とご出身地を教えて下さい。

稲沼氏
1961年7月16日生まれで、東京の荒川区町屋で生まれました。父の仕事の関係で生まれてから直ぐに世田谷に引っ越して、その後、市川、世田谷、足立と転々としました。

吉野
転勤が多い仕事だったんですね。
お仕事は、何をされていたんですか?

稲沼氏
洋菓子の材料を卸す会社の営業をしていました。

その会社の社宅から社宅へ移り住んでいました。

吉野
大変でしたね。小学校の頃に熱中していた事は何ですか?

稲沼氏
家でも外でも、遊んでばかりでした。外では、友達と野球や缶けりをして、家ではプラモデルを作ったり、絵を描いたりしてました。
今のようにテレビゲームなどありませんでしたから、いろいろ工夫して遊んでいました。

吉野
お父様の転勤が多かったので転校したご経験はおありなんでしょう?

稲沼氏
多かったですね。小学校を2回転校しました。ですから小学校は3校に行ってるんです。2回目は、小学校の6年生の11月に転校です。
そのとき、足立区に引っ越しまして中学と高校まで居ました。

吉野
小学校の卒業間まぎわで大変でしたね。

稲沼氏
ですから、生まれた所が故郷でしょうけど、生まれた荒川区町屋にはそういう実感が到底ないし、地元って何なのかが分らずに育ちました。
そういう思い出がないんですよ。

吉野
なるほど。故郷という懐かしい風景がないんですね。

稲沼氏
そうです。特に幼い頃に転居を経験していますから、そういう感じですね。でも、ここ小平市に住んで15年になりますので、
私ども夫婦にとっては、ここが地元という感覚です。

吉野
ご夫婦にとってと言うと?

稲沼氏
うちの妻は、元々北九州の門司の出身ですが、高校を卒業してすぐに東京の製菓学校に入って、それからずっと東京の方が長いですから、小平は、妻にとってもそうなんです。

吉野
パティシエを志したキッカケは何だったんでしょうか?

稲沼氏
実は、高校では落ちこぼれで卒業してからはプータローしてました。今で言うフリーターです。喫茶店でアルバイトして生活していたんです。
でも、そろそろ定職を見つけないといけないなあと思って、その喫茶店でケーキを作っていた方に相談したんです。
そしたら、菓子職人がいかに素晴らしい職業かをとうとうと語るんです。

吉野
その方が、喫茶店でケーキを作られてたんですか?

稲沼氏
今で言うカフェです。けっこうお客さんが多かったんで、その人が毎日バリバリケーキを作ってました。凄いなといつも感心していたんです。
その人の昔、居たところを紹介してくれたんです。

吉野
すんなりと入る気持ちになったんですか?

稲沼氏
父が洋菓子材料の卸しの営業やっていたので、小さい頃連れられてお菓子の工場に行った思い出があるんですよ。
それに、当時バタークリームが主流の時代に生クリームのクリスマスケーキをいつも父が買ってくれて食べた記憶があるんです。
ですから、幼い頃からお菓子に触れる機会が多かったんで、何かの縁があるのかなぁ・・・という感覚で、すんなり就職しました。

それに、絵を描いたり、プラモデルを作ったり、物を作り出す事に関しては、幼い頃から得意だったんです。
父も、絵が好きで、油絵なんですが・・・私が小さい頃、油絵の道具を持って家族一緒に風景画を描きに行ったのを覚えています。
横浜の港の見える丘公園とか、外人墓地とか、御茶ノ水のニコライ堂とか行ってました。
物を作るという部分は、父の影響ですね。

吉野
最初に就職されたのは、何と言う洋菓子店ですか?

稲沼氏
銀座に本店がある近江屋洋菓子店です。菓子工場が日本橋にあったんです。
証券会社などが多いオフィス街の一画にありました。21歳で菓子修業を始めました。

吉野
最初はどういう仕事をされたんですか?

稲沼氏
一番年下で、新参者ですから1年間は、洗い物と販売、配達でした。
日本橋の工場の2階に先輩と二人で住んでいたので何でもやらされました。日本橋でも店頭販売はやっていましたし、工場で作るケーキを銀座に配達する時には、ホンダのカブで後ろにケーキを入れた「ばんじゅう」を高く何段も積んでました。

販売は、喫茶店で接客をやっていましたから苦労とは思いませんでした。
でも、夏は大変でした。
今から思えば信じられませんが、エアコンが工場になかったんで、窓を全開にしてコーラをカブ飲みしながら仕事やってました。
窯が稼動するともう暑くて暑くて地獄でしたね。

吉野
どうでした?菓子職人の仕事は?

稲沼氏
皆で楽しく仕事をしたという毎日でした。
もちろん、菓子作りは色々教えてもらってましたけど、それよりも皆でテニス行ったりスキーに行ったりした記憶の方が多いですね。
チーフがいて先輩が3人いて、そして私でしょう。チーフも30前の方でしたので若い5人でつるんでワイワイやってましたね。

吉野
そこでは、どんなお菓子を作られていたんですか?

稲沼氏
ショートケーキやシュークリーム、クレープなどはありましたが、後はほとんどバタークリームのケーキでしたね。
冷蔵庫はあったんですが、冷凍庫がなかったんですよ。それに今の様な焼き菓子も数種類しかなかったです。
缶入りのクッキーも作っていました。
お菓子にフランス菓子やドイツ菓子など色んな種類があると知らなかったんで、これが菓子職人の仕事だと思っていました。
私が、入って2年たった時にチーフが辞めて、別の経験者の方が入ってきてから凄くカルチャーショックを受けたんですよ。お菓子に関して・・・。

吉野
どういう事なんでしょう?

稲沼氏
チーフの後に入ってきた人が、フランス菓子の事や他の店の洋菓子の話をするんですよ。
それを聞いていると菓子職人って凄いんだ。もっと凄い世界があるんだと、もうワクワクしてくるんですよ。
そして、専門的に菓子の技術を学べるところに行かなくてはいけないと真剣に思ったんです。

吉野
それから、どうされるんですか?

稲沼氏
それから、その人に、専門的に洋菓子を修業できる店を紹介してくれと頼んだんです。
中途採用はしない店だけど面接だけはしてやるって事で、そこの店の面接を受ける事になったんです。

吉野
そこは、何という店ですか?

稲沼氏
荻窪にある「フュッセン」というドイツ・スイス菓子の店です。お菓子教室をやられていた森山幸子先生のお店です。
そこで、初めてお菓子にもジャンルがあるんだと分りましたね。

吉野
結果はどうだったんですか?

稲沼氏
紹介した方の肝入りで入る事ができました。

吉野
仕事のやり方とか違っていましたか?

稲沼氏
そうですね。素材の多さに驚きましたしケーキの種類も多かったですね。道具や設備も整っていたし冷凍庫もちゃんとありました。(笑)

吉野
菓子職人としての新たなスタートですね。

稲沼氏
はい。とにかく貪欲に仕事を吸収しました。
今まではマジパンにしても白い細工用の物しか知らなかったんですが、ローマジパンと言う食べるものがあると知ってびっくりしたりとか・・・とにかく毎日新鮮でした。

吉野
職人に目覚めたっていう感じですね。

稲沼氏
基本的には人に指示される事が嫌いな性格ですから、職人になった以上は最終的には自分の店を持つという夢がありました。
でも前の店の時は、若かったし、皆で遊ぶ事も楽しかったんで、店を持つといっても漠然としたものでした。「フュッセン」に来て、本当の意味での職人としての修業が始まったという気持があったので、現実に自分の店を持つんだという気持ちが高まりました。
それに、妻が当時、森山先生のお菓子教室で講師をしていたので、それがキッカケで知り合って付き合うようになっていたんです。
彼女も自分の店を持ちたいという思いで門司から出てきてたので、二人で店を開きたいと思うようになりました。

吉野
人に指示される事が嫌いな性格の方が素直に先輩のいう事を的確にこなしたんですか?

稲沼氏
はい。指示されるというのは、自分がまだ半人前だからっていう証拠ですから、素直に頑張りました。
その後、先輩が次々に独立したりして辞めていって、2年目には2番手になったんです。その時のチーフが、現在、所沢でエミールという洋菓子店を経営されている高橋さんです。
その後、高橋さんの後を受けてチーフになりました。3年間チーフをさせていただいて、合計6年お世話になりました。

吉野
その後、いよいよ自分たちの店ですか?

稲沼氏
いえ、だんだん欲が出てきたんです。夢が膨らんでくるというか・・・・。デザートを勉強してみたいという気持になったんです。
将来の自分たちの店を考えた場合に、ショーケースに生菓子があり、焼き菓子を並べたコーナーがあり、そこにカフェみたいに皿盛でデザートも出したいというイメージがあったんです。
私が「フュッセン」を辞める頃は、すでに結婚もしていたし、自分たちの店を始める前に最後の勉強のつもりで「アルピーノ」というフレンチレストランを経営する会社のお菓子部門に就職したんです。

吉野
どうでしたデザート作りの成果は?

稲沼氏
そうですね。大変だと思いました。
「アルピーノ」には3年間いたのですが、通常のお菓子作りが忙しくてレストランでデザートを提供したのは2回位だけだったんです。
それに、高橋さんや独立した方々に色々聞いてみると通常のお菓子作りと並行してデザートの提供は無理ではないかという気持になりました。

吉野
その後は、どうされるんですか?

稲沼氏
2年間大きな菓子工場で製造の責任者の仕事をしました。
製造管理の他にパートさんやアルバイトさんの勤務の管理をまかされて大変でしたが、お店を経営する上で大変勉強になりました。

吉野
さて、いよいよ稲沼オーナーと奥様の店のオープンですね。

稲沼氏
はい。問題は、場所でした。実は、うちの両親が現在でも茨城に住んでいるんで、「茨城で店をやれ」って言っていたんです。
それに、妻の実家が商店のテナントを経営してますから、そちらの実家からも、「門司でお店を開いて」という声があったんです。

吉野
板ばさみですね。

稲沼氏
そうなんです。でも、最終的には、子供のために小平市に店を持つことにしました。

吉野
・・・と、言うのは?

稲沼氏
私は生まれてから各地を転々としていましたから、子供たちには、そういう思いをさせたくないと思っていたんです。
生まれて育ってせめて独り立ちするまでは、この小平で生活していこうと思っていましたんで、子供たちが生まれた小平市で店を開くことに決めました。

吉野
この場所は、どういう経緯で見つけたんですか?

稲沼氏
住んでいる所から半径5キロ圏内と思って探していました。
ある時、花小金井まで行くバスに乗った時にバスの路線から、この場所が見えたんです。前にも見かけていた場所だったんで気づいたんですが、平日なのにシャッターが閉まっていたし、看板が取り外してあったんです。その足で近くの不動産屋に飛び込びました。

吉野
ピ〜ンとくる事があったんですか?

稲沼氏 
道路が比較的広く車寄せもできますし、学校も近いし、北向きだったんでここしかないと見た瞬間思いました。

吉野 
いよいよ、オープンですね。

稲沼氏
はい。そんなに大きくはありませんが自分の背丈に合わせた店を持つことができました。
落ちこぼれで、フリーターだったこんな自分が店を持つ事ができたのも、両親をはじめ家族や親戚、周りの方々の援助があったからだと本当に思います、そんな気持を忘れないよう、私の父に感謝の想いを込めて1999年9月13日父の誕生日の日にオープンしました。

吉野
「菓子屋イコナ」という名前の由来を聞かせてください。

稲沼氏
パティシェールでもある妻と一緒に開いた店ですから、ふたりの名前を入れたかったんです。
妻の旧姓が、伊古野 いこの と言います。私が、稲沼 いなぬま ですから、伊古野の「いこ」と稲沼の「いな」を採って、「イコナ」としました。

吉野
なるほど。夫婦合作ですね。
オープンされてからのご苦労はありましたか?

稲沼氏
最初は、ひとりで地道にやっていくつもりだったんで、ちらしなどは一切配布しませんでしたが、でも、とんでもなかったです。
オープンしてしばらくは連日大変でした。高橋さんに応援していただいて何とかやれました。
それからも、しばらくは寝袋持参で店に寝泊りしていました。
幸いにも、「フュッセン」の先輩が、小平に住んでるスタッフの方をしばらく回していただいて何とかクリスマスは乗り越える事はできました。
その後、正式にスタッフを入れました。

吉野
最初は、大変でしたね。それでは、菓子職人になりたいという方に何かアドバイスをお願いします。

稲沼氏
「自分で考えろ」これに尽きますね。
人間ってマニュアル通りに言われたとおりにやるのは非常に楽です。
でも、それでは成長しないんです。
考えるという延長線上に「今までは、こうやったけど、こうすれば早くできる」とかの進歩があるんです。いくらお菓子が好きでも自分で考える力を養わないといけないと思うんです。

うちは製造でも接客をしてもらっています。
それが大事だからです。
お客様と応対する事でお客様の目線で考える事ができるんです。
製造だけやっていると「新しいお菓子を出した。でも売れ残ってしまった」で終わりますが、お客様と接する事でお客様の仕草や質問で、そのお菓子がどういう印象を持たれているのかが分るんです。お客様を観察しながら色々自分で考えないとお菓子が売れ残った原因は分らないんです。

それと、愛嬌も大事です。笑顔ですね。お菓子作りが多少遅くてもニコッとした笑顔さえあればいいんです。

吉野
稲沼オーナーにとって菓子職人にとって大切な事って何ですか?

稲沼氏
バランス感覚ですね。
アイテムのバランスで言えば、私自身は、ヨーロッパの菓子を中心に修業してきましたが、それだけにこだわっている訳ではありません。和の素材も多いに使っています。また伝統的なお菓子も大切にしつつ斬新な組み合わせのお菓子も積極的に作っていきたいです。

それから地域性とか嗜好性というバランスも大事です。
都心なら都心のお菓子があるでしょうし、ホテルならホテルなりの大人向けの少しお酒を効かせたお菓子が好まれる場合もあります。
でも、ここは郊外ですので一部の方々だけの好みを意識したお菓子ではなく、お子様からご年配の方まで美味しく食べていただけるようなバランスのあるお菓子を提供していくのが菓子職人だと思っています。

お菓子ひとつひとつの中でもバランスを考えます。先程吉野さんに食べて頂いた「阿寒湖クリームプリン」ですが、固くもなく・トロトロでもない、あのクリーミーさのバランス、あるいはやわらかさの中にクリスピー食感があったりと、そういうバランスというのも大事だと思います。

それと、オーナーシェフという部分での話ですが、経営者と職人のバランスをどうとっていくか、これもそうですね。店を自分で持って初めてわかる事かもしれません。最近、従業員が増えてきてつくづく思う事があります。店に入ってくる子たちを人間的にも職人的にも少しでも成長させてあげるのが大事だと思っています。
そりゃあ、私も、今まで人を使う時に失敗も多くありましたが、それが自分自身を成長させてくれたんだという思いもあるんですよ。
今、フルーツアレルギーを持つ子をスタッフとして雇っています。

吉野
えっ?それでは、菓子職人は難しいのではないですか?

稲沼氏
そうです。普通に考えると菓子屋でフルーツを食べれない人がお菓子を作る事って不可能ですよね。
その子も、職業を選択する中で、自分のアレルギーを自覚していて、どうして菓子屋を選んだのか不思議だったんです。
でも「どうしても菓子屋になりたいんです。だめですか?」と聞かれると頭ごなしに否定はできないなあと思って採用したんです。

ただ、本当にどうすればいいのか、どうやって育ててあげるべきかを今色々考えています。
でもフルーツが全般だめな訳ではないしシュークリームやチョコレートは、大丈夫ですから何とかしてあげたいですね。
お菓子作りはもちろんですが、人作りも大事だと思っています。それが自分自身のためにもなるんですから。

吉野
本日は、貴重なお話をありがとうございました。