吉野
生年月日とご出身地を教えてください。

平良氏
生まれは、沖縄です。沖縄の与那原町という那覇市に近い小さな町です。生まれた日は1962年10月7日です。

吉野
小学校の頃の平良オーナーはどういうお子さんでしたか?

平良氏
算数と体育が好きな子供でしたね。
小学校3年から中学3年まで町の野球チームに所属して熱中していました。守備は、主にキャッチャーをしていました。

吉野
好きなプロ野球選手はどなたでしたか?

平良氏
友達は長島さんが好きだったんですが、私は王さんでしたね。

吉野
沖縄と言えば「海」ですが、海で泳いだりとかしてたんでしょう?

平良氏
小さい頃は海でよく泳いでいたんですが、小学校の4年頃ですかねぇ・・・・遊泳禁止になったんですよ。

吉野
海で泳いではいけないんですか?

平良氏
ええ。近くに石油コンビナートがあったり生活排水などの影響があって泳げないほど汚染がひどくなったんです。

吉野
沖縄といえば青いきれいな海というイメージがあるんですが・・・・。

平良氏
一見しただけではそんなに汚れているようではないのですが、近くの海ではそれ以来泳いだ事はありません。
父の出身が沖縄の中心部にある伊計島という海のきれいな町だったんで、夏休みはそこに行って泳いでいました。

吉野
菓子職人を志したのはどういう事だったんですか?

平良氏
母が小さな菓子屋をやっていたんです。

吉野
では、お母様の影響ですか?

平良氏
母の実家が地元でも老舗の菓子屋だったんです。その店に父が菓子修業に入って母と知り合い結婚したんです。
その後、父は母と所帯を持つのですが、その時の父の給料では一家を養えないという事で父は大工の仕事をするようになり、母が住まいを改造して小さな菓子屋を開いたんです。
忙しい時には父が手伝ってました。親戚にも菓子屋が多かったんです。

吉野
そういう環境でお菓子作りに興味を示したんですね。

平良氏
ええ、歳の離れた従兄弟が東京で修業して初めて洋菓子というものをうちの街に持ってきたんです。
小学校の低学年の時でしたが、従兄弟が作ったオムレットというスポンジに生クリームとバナナを包み込んだお菓子を始めて食べた時にはすごく美味しかったのを覚えています。
それからいつもその店に行ってシュークリームとか色んなケーキを食べてました。
こういうケーキを作ってみたいと子供心に思いました。それが直接の影響ですね。中学を卒業して高校に入る時 進路の事を考えたときに、その時の事を鮮明に思い出して・・・・洋菓子職人になろうと決めました。

吉野
では、高校に入学する時には菓子職人になるって決めてたんですね。

平良氏
そうです。高校を卒業したら東京の製菓学校に入るつもりでしたので、高校時代は単位を落とさない程度に遊びまくっていました。

吉野
どこの製菓学校に入られたんですか?

平良氏
当時は新大久保にあった東京製菓学校です。その学校の寮に入りました。

吉野
学校の寮はどこにあったんですか?

平良氏
東村山です。学校やバイト先からも遠かったんで、半年で都内のアパートに移りました。

吉野
都内だったら家賃は高かったでしょう?

平良氏
安い所を捜したんですが、6畳一間で風呂なし共同トイレで29,000円でした。
沖縄なら3万円も出せば家族で暮らせる部屋を借りられる値段です。
入学して半年間でアルバイトでアパートの敷金などの資金を貯めました。

吉野
アルバイトは何をなさっていたんですか?

平良氏
京王プラザホテルの配膳スタッフのバイトです。学校出るまでの2年間は、土日は宴会や結婚式などの為にほとんどアルバイトでした。
平日も用事がある以外はアルバイトしてました。

吉野
休みがない状態ですね。

平良氏
東京まで来て自分の好きな事をする為に両親が大変な思いをして学費を工面してくれてたんで生活費ぐらいは自分で稼ごうとアルバイトに頑張りました。
でも、平日は学校の友達とよく遊んでましたね。勉強もアルバイトも遊びも全力投球でした。若いからやれたんだと思います。

吉野
学校を卒業されてどこに就職されたんですか?

平良氏
国立の「アンファン」という洋菓子店です。
そこではアイスクリームを作ってたんで将来、沖縄で店を開いたときには役に立つだろうと思って就職しました。

吉野
厳しかったですか?

平良氏
そうですね。私が入った時には、シェフ以外に職人が7人いました。
優しい先輩もいましたが、苺の切り方が違うという事でナッペ用のナイフではたかれたりとかはありましたね。
そういう意味では厳しかったのかもしれませんが、当時は、菓子職人の世界では当たり前だと思っていましたので苦しいとか辛いとかは思いませんでした。ただ暇な夏の仕事がない時でも夜の9時までは店にいないといけなかったんで、それが嫌でしたね。

吉野
仕事時間は毎日どれくらいだったんですか?

平良氏
朝6時くらいから夜は9時過ぎまで仕事してました。もちろん忙しい時期は、夜はもっと仕事してました。

吉野
8人の職人が毎日忙しい店だと繁盛店でしたでしょう?

平良氏
まあ、そうですね。でもクリスマス時期には職人が私を含めて3人だけになってしまったんです。
色んな事があって半分以上辞めてしまったんです。

吉野
その店にはいつまでおられたんですか?

平良氏
1年で辞めました。それから製菓学校に相談したんですよ。そこで新しい洋菓子店を紹介していただきました。

吉野
何という洋菓子店ですか?

平良氏
豪徳寺にあったオーナーシェフである棟田さんの「ル・サントノーレ」という店です。

吉野
どうでした棟田オーナーの店は?

平良氏
棟田オーナーは、非常に優しい方で何もうるさい事を言われた事がないんです。
あれをやれこれをやれって言われないのにいつの間にか身に付いているという感じでしたので、凄い方だなぁと思いました。
作るケーキの種類は多かったですね。前の店で焼き場までしかやっていませんでしたので仕事のほとんどは「ル・サントノーレ」で覚えました。

吉野
平良オーナーにとって棟田さんは師匠という事ですね。

平良氏
そうですね。とても真似はできませんが目標にしている尊敬できる方ですね。5年間お世話になりました。

吉野
その後、どうされたのですか?

平良氏
「ル・サントノーレ」の時の先輩の紹介で横浜にあるレストランの洋菓子部門に入りました。
そこの店はオーナーが洋食のシェフが経営されている店でした。ケーキはレストランでも出していたんですが他のレストランや喫茶店の卸をやっている店だったんです。
卸の場合は、量をこなさないといけない仕事でしたんでレアチーズとかチョコレートケーキを仕上げまでして冷凍してました。

吉野
冷凍というとマイナス的なイメージですが・・・・。

平良氏
その日に作ったケーキをその日に売るという洋菓子店では仕上げまでしたケーキを大量に冷凍するという事はありませんが、卸の場合は、必要な事です。ただ、今の冷凍技術というのはとても優れていて「出来立ての美味しさをそのまま冷凍する」という技術なんです。

吉野
平良オーナーは、独立をしようと思ったのはいつぐらいのことですか?

平良氏
独立は、菓子職人になろうと決めた時から考えていましたが、具体的に独立を意識したのは妻と結婚した時です。
23歳で結婚したんですが、妻も同じ製菓学校に通ってたんです。就職も同じ店だったんですが、女性は製造はできないと言われ「アンファン」では販売をしてました。
でも、製造の仕事がしたいということで「アンファン」を半年で辞めて乃木坂にあった洋菓子店に勤め、その後は、荻窪にある「フュッセン」という店で結婚するまで働いていました。

吉野
ご夫婦で洋菓子店を開こうという話をされていたんですね。

平良氏
そうです。妻もパティシエールの経験があるので2人で自分たちの店を開くのが夢になりました。
結婚してからすぐに子供ができたのですが、運よく安い都営住宅に入ることができたので妻は何とかやり繰りしながら開業資金を貯めてくれました。

吉野
そうなると、沖縄で開業というよりも東京で店を開くという目標になったんですね。

平良氏
妻が東京の生まれでしたし、私も東京で2人の店を持ちたいと考えるようになりました。
そのレストランの後 町田にあった洋菓子店をひとりでやるようになったんです。

吉野
ひとりでやるっていうのはどういう事ですか?

平良氏
ある方から町田にある洋菓子店の責任者になってくれないかという話があったんです。
条件も良かったし、要するにシェフとしてやってくれと解釈したので入る事にしたんです。話としては、今ある洋菓子店を大幅に作り直して新しい洋菓子店としてオープンさせるという話でした。
でも、いつまで経っても話が進まないんですよ。それで経営者に連絡を取ってみるとバブルがはじけて受けられるはずの融資が受けれないという返事だったんで、話が違うと食い下がると「今の店をリニューアルするのでひとりで切り盛りしてくれ」という話になったんですよ。

吉野
当時はそういう話が多かったんですね。

平良氏
話が違うがそういう事情ならしかたがなかったので、やってみるかという気持になりました。
製造は私ひとりで販売はアルバイトでスタートしました。

吉野
全部をひとりでやってたんですか?

平良氏
はい。販売のアルバイトさんが帰ると販売までやりました。喫茶コーナーもあったんで大変でした。そこで3年間やりました。

吉野
その後、独立ですか?

平良氏
そうです。町田の店で働いている時に休みの日を利用して店の物件探しはしていたんです。
資金的に都内でも23区内は無理だろうと思ってましたんで23区以外の物件を探していたんですが、現在の店の斜め前に、以前パン屋さんをやっていた店舗があったんですが、そこを紹介されたんです。ただ洋菓子も作っていたパン屋さんだったんで、そこに開業するとなると前の店のイメージがあり新店舗としては不利なような気もしたんで断ったんです。

吉野
同じような業種だったら以前の店のイメージがどうしても付きまといますね。

平良氏
「ル・サントノーレ」の後輩が店をオープンしたときに開業にいくらかかったかと言う話をした時に、その金額があまりにも大きかったんで・・・・やはり自分たちには無理ではないかと一時はあきらめたんです。

吉野
開業資金はどれぐらいあったんですか?

平良氏
妻がコツコツ貯めてくれたお金が600万円くらいありました。それが自分たちの夢を実現できるお金の全てでした。
夫婦で話し合って、たとえ小さくても自分たちの身の丈に合った店でもいいから持とうという事になって、再度物件探しを始めたんです。
そうすると、以前すすめられたパン屋さんだった店舗がまだ空いていたんです。そこには冷凍庫がなかっただけでショーケースや窯が付いていてたんで、それを考えると資金的にもなんとかやれそうな感じでしたから、最終的には、そこに決めました。

吉野
上を見たらキリがないですもんね。平良オーナーがその時に準備できる精一杯の店舗だったんですね。

平良氏
そうです。資金が少しかなかったんで、看板も家族全員で手作りしました。自分たちでできることは全てやりました。
そして1993年11月にオープンしました。
棟田オーナーが30歳で独立されていたんで、私も30歳で独立したいという思いがあったんで、30歳を目標にしてましたが、1年遅れの31歳で独立しました。

吉野
店名の「ウルソン」ってどういう意味ですか?

平良氏
ウルソンというのは「小熊」という意味です。童話の世界のイメージです。
小熊って子供さんから好まれるキャラクターだったので、この名前にしました。

吉野
オープンはいかがでしたか?

平良氏
オープンの時には、大変多くのお客様に来ていただきました。とても忙しかったのですが昔の仲間に手伝いに来てもらったんで助かりました。
オープン以降は私が製造、妻が販売という役割分担で始めました。
1日4万円売れればいいなぁ・・・と考えていたんですが、倍くらい売れるようになったんで、製造がひとりで大丈夫かなと思いましたね。

吉野
ひとりでは限界もありますよね。

平良氏
ただ、町田の店をやってた時には、全て自分でやっていたんで、それがとても良い経験になってます。あの時の事を考えると自分の店をオープンする前に大変貴重な経験をさせてもらったなぁと思っています。

吉野
そうですよね。その経験があるのとないのでは全然違いますよね。ひとりで製造はどれくらいやられたんですか?

平良氏
1年半ひとりで頑張りました。ひとりでやっていたのには理由があるのです。
ショーケースや窯とか、エアコンが相当に使い込んでいたので、新しいものにしたかったんです。人を入れる前にそういう設備を優先したかったんで、ひとつひとつ新しいものを揃えていきました。
そして、1年半経ってから製造も私ひとりでは限界だったんでスタッフを入れていきました。

吉野
店舗や設備にしても決して理想通りの店ではなかった状態でしたが、一歩一歩着実に進んでこられたんですね。
でも、やはり最初からご夫婦の理想の青写真通りの店を持ちたいというお気持はあったんですね。

平良氏
そうです。ですからオープンして4年半で武蔵境に「ウルソン武蔵境店」をオープンさせたんです。
どうしても夫婦二人の新しい店舗が欲しかったんです。

吉野
どうでした新しい武蔵境の店は?

平良氏
店をオープンした時は本当に嬉しかったですね。自分たちの念願が叶ったんですから。
ただ、そう思う反面 府中の店もどうにかしないといけないなあとは思いました。
武蔵境店を出せるまでの基礎を全て作ってくれた店が府中の店でしたし、製造スタッフが増えた分製造の場所も手狭でしたから。
それにお客様にはもう少しゆっくりとお菓子を選んでいただけるような広さも必要だと思っていました。


吉野
そこで、現在の店舗に移転されたんですね。

平良氏
そうです。最初の店の道路を挟んだ斜め向かいが現在の府中店です。
当時そこには、衣料品を販売する会社が入っていたんですが、その会社が移転されて空いてしまったんです。
ただ建物は充分な広さだったんですが、駐車場がなかったんです。その当時、建物の横には倉庫があったんです。その事を銀行の担当の人に話した事があったんですが、どういう訳かとんとん拍子に話が進み、その場所に移転するようになりました。
2004年に現在の場所に移転しました。製造の広さも充分だし、とても満足しています。

吉野
平良オーナーの店のお菓子はとてもリーズナブルですね。

平良氏
ケーキやお菓子というものは特別なものではなく、生活の一部だと考えています。
ケーキが食べたいなと思っていただいた時に、例えば4人家族で決して安いとは思っていませんが1,000円程度ではないかと思うんです。
そこに商品の価格の基準を置いています。
一番心がけている事は、気軽に来ていただける店です。

吉野
パティシエになりたい方々に何かアドバイスはありますか?

平良氏
現場に入ったら体力勝負の大変な職場です。休暇とか給料とかを比較すると普通の会社員の方が休みも多いし、給料だって多いと思います。だけど本当にお菓子が好きでお菓子に携わる仕事がやりたいのだったら、どんなに大変でもその気持をずっと持ち続けてもらいたいと思っています。

4年くらい洋菓子店で働くとある程度お菓子を作れるようになるんで、女性の場合は、そこで満足しちゃうんです。
もちろん結婚という現実的な事もあるので、仕方がないのもしれないですが。ただ、そこからもう少し頑張れるかどうかですね。
4年くらいはだれでも頑張るんですよ。そこから先にもっと自分の可能性を開く事ができると思っています。

吉野
製菓学校の講師をしたり、自分の店を出したり、お菓子教室を主宰したりとかの可能性ですね。

平良氏
そうです。ただ、そういう職業も簡単なものではありません。5年やったからとか10年やったからなれるというものでもありません。
ただ、本当にお菓子が好きなら続けていれば色んな可能性の道は開けてくると思います。
それと、周りをよく見るという事も大切ですね。観察しろという事です。
電車に乗っている時に前に座っている人を見て「平日の昼間なのにラフな服装だけど、今日は休みなのかな」とか「仕事は自営業の人かな」とか・・・・人を観察する事でお店に来るお客様の事も分かるようになるんです。
今の世の中は、自分の事だけで精一杯な人が多いので、他人に興味を持って観察するという事は大事ですね。

吉野
今日は、長い時間ありがとうございました。