吉野
好きなプロ野球選手はどなたでしたか?
平良氏
友達は長島さんが好きだったんですが、私は王さんでしたね。
吉野
沖縄と言えば「海」ですが、海で泳いだりとかしてたんでしょう?
平良氏
小さい頃は海でよく泳いでいたんですが、小学校の4年頃ですかねぇ・・・・遊泳禁止になったんですよ。
吉野
海で泳いではいけないんですか?
平良氏
ええ。近くに石油コンビナートがあったり生活排水などの影響があって泳げないほど汚染がひどくなったんです。
吉野
沖縄といえば青いきれいな海というイメージがあるんですが・・・・。
平良氏
一見しただけではそんなに汚れているようではないのですが、近くの海ではそれ以来泳いだ事はありません。
父の出身が沖縄の中心部にある伊計島という海のきれいな町だったんで、夏休みはそこに行って泳いでいました。
吉野
菓子職人を志したのはどういう事だったんですか?
平良氏
母が小さな菓子屋をやっていたんです。
吉野
では、お母様の影響ですか?
平良氏
母の実家が地元でも老舗の菓子屋だったんです。その店に父が菓子修業に入って母と知り合い結婚したんです。
その後、父は母と所帯を持つのですが、その時の父の給料では一家を養えないという事で父は大工の仕事をするようになり、母が住まいを改造して小さな菓子屋を開いたんです。
忙しい時には父が手伝ってました。親戚にも菓子屋が多かったんです。
吉野
そういう環境でお菓子作りに興味を示したんですね。
平良氏
ええ、歳の離れた従兄弟が東京で修業して初めて洋菓子というものをうちの街に持ってきたんです。
小学校の低学年の時でしたが、従兄弟が作ったオムレットというスポンジに生クリームとバナナを包み込んだお菓子を始めて食べた時にはすごく美味しかったのを覚えています。
それからいつもその店に行ってシュークリームとか色んなケーキを食べてました。
こういうケーキを作ってみたいと子供心に思いました。それが直接の影響ですね。中学を卒業して高校に入る時 進路の事を考えたときに、その時の事を鮮明に思い出して・・・・洋菓子職人になろうと決めました。
吉野
では、高校に入学する時には菓子職人になるって決めてたんですね。
平良氏
そうです。高校を卒業したら東京の製菓学校に入るつもりでしたので、高校時代は単位を落とさない程度に遊びまくっていました。
吉野
どこの製菓学校に入られたんですか?
平良氏
当時は新大久保にあった東京製菓学校です。その学校の寮に入りました。
吉野
学校の寮はどこにあったんですか?
平良氏
東村山です。学校やバイト先からも遠かったんで、半年で都内のアパートに移りました。
吉野
都内だったら家賃は高かったでしょう?
平良氏
安い所を捜したんですが、6畳一間で風呂なし共同トイレで29,000円でした。
沖縄なら3万円も出せば家族で暮らせる部屋を借りられる値段です。
入学して半年間でアルバイトでアパートの敷金などの資金を貯めました。
吉野
アルバイトは何をなさっていたんですか?
平良氏
京王プラザホテルの配膳スタッフのバイトです。学校出るまでの2年間は、土日は宴会や結婚式などの為にほとんどアルバイトでした。
平日も用事がある以外はアルバイトしてました。
吉野
休みがない状態ですね。
平良氏
東京まで来て自分の好きな事をする為に両親が大変な思いをして学費を工面してくれてたんで生活費ぐらいは自分で稼ごうとアルバイトに頑張りました。
でも、平日は学校の友達とよく遊んでましたね。勉強もアルバイトも遊びも全力投球でした。若いからやれたんだと思います。
吉野
学校を卒業されてどこに就職されたんですか?
平良氏
国立の「アンファン」という洋菓子店です。
そこではアイスクリームを作ってたんで将来、沖縄で店を開いたときには役に立つだろうと思って就職しました。
吉野
厳しかったですか?
平良氏
そうですね。私が入った時には、シェフ以外に職人が7人いました。
優しい先輩もいましたが、苺の切り方が違うという事でナッペ用のナイフではたかれたりとかはありましたね。
そういう意味では厳しかったのかもしれませんが、当時は、菓子職人の世界では当たり前だと思っていましたので苦しいとか辛いとかは思いませんでした。ただ暇な夏の仕事がない時でも夜の9時までは店にいないといけなかったんで、それが嫌でしたね。
吉野
仕事時間は毎日どれくらいだったんですか?
平良氏
朝6時くらいから夜は9時過ぎまで仕事してました。もちろん忙しい時期は、夜はもっと仕事してました。
吉野
8人の職人が毎日忙しい店だと繁盛店でしたでしょう?
平良氏
まあ、そうですね。でもクリスマス時期には職人が私を含めて3人だけになってしまったんです。
色んな事があって半分以上辞めてしまったんです。
吉野
その店にはいつまでおられたんですか?
平良氏
1年で辞めました。それから製菓学校に相談したんですよ。そこで新しい洋菓子店を紹介していただきました。
吉野
何という洋菓子店ですか?
平良氏
豪徳寺にあったオーナーシェフである棟田さんの「ル・サントノーレ」という店です。
吉野
どうでした棟田オーナーの店は?
平良氏
棟田オーナーは、非常に優しい方で何もうるさい事を言われた事がないんです。
あれをやれこれをやれって言われないのにいつの間にか身に付いているという感じでしたので、凄い方だなぁと思いました。
作るケーキの種類は多かったですね。前の店で焼き場までしかやっていませんでしたので仕事のほとんどは「ル・サントノーレ」で覚えました。
吉野
平良オーナーにとって棟田さんは師匠という事ですね。
平良氏
そうですね。とても真似はできませんが目標にしている尊敬できる方ですね。5年間お世話になりました。
吉野
その後、どうされたのですか?
平良氏
「ル・サントノーレ」の時の先輩の紹介で横浜にあるレストランの洋菓子部門に入りました。
そこの店はオーナーが洋食のシェフが経営されている店でした。ケーキはレストランでも出していたんですが他のレストランや喫茶店の卸をやっている店だったんです。
卸の場合は、量をこなさないといけない仕事でしたんでレアチーズとかチョコレートケーキを仕上げまでして冷凍してました。
吉野
冷凍というとマイナス的なイメージですが・・・・。
平良氏
その日に作ったケーキをその日に売るという洋菓子店では仕上げまでしたケーキを大量に冷凍するという事はありませんが、卸の場合は、必要な事です。ただ、今の冷凍技術というのはとても優れていて「出来立ての美味しさをそのまま冷凍する」という技術なんです。 |